| 津軽霊場三十三ヶ所巡り |

本州最北の霊場巡り
恐山までたどる 津軽観音巡礼
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本州の最北端に位置する青森児は古代から化外の地であった。文献にはじめて登場するのは、斎明夫皇の四〜六年(六五八〜六六〇) で、阿倍比羅夫の
水軍が蝦夷征伐のために北上し、掛他(能代)、都加留(津軽)の郡領を設置し、有間浜で蝦夷と交流し たことが日本書紀に記されている。
「陸奥国」とよばれるようになるのは八世紀のは じめ、これも後進性を示す「道の奥の回」とよんだ。
八世紀から九世紀になると、坂上田村麻呂、それに文室綿麻呂の蝦夷征伐が行なわれ、陸奥国の存在が 中央でも関心をもつようになる。その後奥州藤原氏
の支配となり、藤原氏が源頼朝にほろぼされ、やがて北条氏が権力を握ると、鎌倉ご家人の曽我氏が地 頭代として派遣され、津軽の豪族安東氏が暇夷管領
に、南部光行が戦功により糠部地方に拠点をもった。
安東一族の内紛、鎌倉幕府の滅亡、南北朝の動乱とつづくなかで、南部氏は勢力をのばし、曽我氏を減 ぼし、津軽地方へ侵透して安東氏を駆逐する。そし
て津軽の全域を手中に収めた。ところが南部氏は内部の対立などで統制力を弱め、配下の大浦為信が挙 兵して、南部氏は津軽地方を失い、一六世紀後半に
なると津軽は大浦氏の支配下におかれる。その後大 浦氏は津軽氏を名のり、関ケ原合戦で徳川方となったことから大名としてその基盤を確立し、弘前城を
拠点に十二代、三百六十年間にわたり領国経営にあたった。
ところで、津軽の霊場縁起などによれば、行基菩薩、坂上田村麻呂、慈覚大師を開削とするところが見られ、史実としては信じがたいけれど、古くからこの地方でも人々の間で観世音が信仰されていたこ
とが知られる。
また、津軽三千坊 (阿聞羅、十三、 梵珠)が今日その名をとどめるように、当時は修験行者によって各地に信仰がひろめられた。西国に三
十三の観音霊場が創設され、観音信仰が盛んとなり、 鎌倉時代に坂東三十三カ所、室町時代に秩父三十四 カ所が設けられ、百観音霊場が成立し、江戸時代に入り政情が安定し、観音巡礼が庶民の間でおこなわ
れるようになると、津軽地方からも西国へ巡礼する人が多くなり、その納経帖や巡拝記念碑が現存し 当時の盛況が知られる。
一生に一度の腸線に恵まれたこれらの人々は、両 国巡礼の途中、各霊場のお砂をいただき、故郷へ奉 持し、近隣の寺や御堂へ納めた。津軽の観音霊場は
こうした人々により生み出された。
記録(松井四郎兵衛「古今御用抜書」−延宝〜延 享三年一六七三〜一七四六)によれば、当初は御国 三十三所と称し、弘前の一番袋宮寺よりはじまり、
西の深浦から北は三厩へ、そして東の青森を経て南の広船へ、打納めは弘前の大円寺となっている。
江戸時代も中ごろになると番付が編成しなおされ、その記録(寛延四年−一七五一−甚五郎の「津軽三十 三所順礼」)によれば、十四カ所が異動し、一番は久渡寺となり、弘前城下にあった札所が広く津軽地方へ分布して結願は弘前の山ノ観音・普門院となっている。
これは津軽氏の支配が安定し、新田開発などによる領内の拡張により、各地に村落が生まれ、観音信 仰がひろまったためといえよう。一方,巡礼などに
よる長期間の出国者が増加すれば、領外へ貨幣や労働力が流れ出て経済を圧迫しかねない。そこで出国 禁止や取締を強化し、領内霊場巡拝を奨励する結果ともなったといえよう。江戸時代の末ごろになると
観音堂に飛竜権現を併祀し、神仏混合の形態が見られ、明治の廃仏毀釈には壊滅にひとしい影響を受けた。
再び観音巡礼が複活するのは明治の中ごろからで、 信仰深い村人により旧地にご本尊が奉安される。いま、津軽の観世音はこんもりとした森の中や、美し
い海辺や、奥深い山中で慈愛あふれるお姿で、あなたの巡拝を待たれておられる。
*文・写真 平幡良雄著「津軽観音巡礼」参照 |
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